ブロッコリーキャラクタースリーブ ヱヴァンゲリヲン新劇場版 「SEELE」
ゼーレマークに書かれている言葉“星空の上で神が裁く、我等がどう裁いたかを”
図柄はりんごと蛇
知恵の実であるリンゴ
そしてアダムとイブを騙したとされるヘビが描かれている。
智慧の実を食べるように、そそのかす蛇が螺旋を巻く。
誘惑と欲望、智慧と無知、神と悪魔。
相反する2つの意味が、シンボルの中で交差している。
そして左右に沈黙の仔羊に由来する七つの目。
ゼーレマークに書かれている文字
中央の文字は ZEELE(ゼーレ)その下の文字は
“berm Sternenzelt richtet Gott, wie wir gerichtet.”
“星空の上で神が裁く、我等がどう裁いたかを”
一般的には、我々の行いを星空の上で神が見ていて、それは神の目には誤魔化すことはできないのであとでちゃんと裁かれますよ、みたいなことにだろう。
“星空の上で神が裁く、我等がどう裁いたかを”
これを分離の世界の理(ことわり)を当てはめて考えてみると、解釈の仕方が違ってくる、ってことになる。二通りの解釈の仕方があるってことだ。
分離の世界では 相反するふたつのことが 必ずセットになってあるってこと。
上下・左右・善悪・表裏・勝敗のようにね。
だから解釈も相反するふたつの解釈が出来ちゃうってことになる。
普通の解釈してるだけじゃつまらないでしょ。事実は小説より奇なり、って言葉があるけど真実も結構そうっだったりして。
まずは “星空の上で神が裁く”
“星空の上で神が裁く”ってのは、素直に神が私たちを裁くってことだと思う。まあ、これは言葉通りに解釈してもいいのかな思う。
“我等がどう裁いたかを”ってところが、解釈によって意味が真逆になる。
厳密に言えば、“神”の定義自体が人によって違うので、その時点での解釈すら違ってくるということだけど、ここではそれをいったん脇に置いておく。
創世記でエホバ神はアダムに対し“善悪の知識の実”という表現をしている。“善悪の知識の実”とうい表現自体が、分離の象徴になるんだろう。
アダムとイブが善悪の知識の実を食べてしまったから、人は生まれながらにして罪がある、と捉えるのか。
または、分離の世界を体験するために アダムとイブが善悪の知識の実を食べた、と捉えるのか。
分離の世界を体験するために アダムが善悪の知識の実を食べた、と捉えれば 善も悪も同時に存在する分離の世界の出来上がりになる。
捉え方によって意味は全く違うものになる。
どのみち分離の世界なんだから、考え方にも良いことと悪いことがあることになる。
善悪自体、厳密に考えれば 時代や文化や国によって違ってくる。宗教によっても違ってくるのかもしれない。
まあ、普通に考えれば 犯罪は悪ってことになるだろう。
こう考えると “星空の上で神が裁く”ってのはボクらの行いが悪ければ星空の上で神に裁かれるって解釈になる。
犯罪は誰が見ても悪いことになるだろうけど ある意味単純すぎるような気もする。分かりやすく言えば 殺人は悪いことで罪に問われ刑罰の対象になる。
殺人に関しては 誰でも悪いことだと考えるだろうから、罪に問われるのが当然だと思うだろう。人の命がなくなるいうことは 誰の目から見ても明らかに分かることだから。
が しかしだ、たとえば誰かの心をズタズタにして殺すようなことをしたとしても 罪に問われることはない。
目に見える肉体に対してズタズタにすれば、もちろん傷害罪になるのに、心はいくらズタズタにされようが、壊れるまでに殺されようが、罪に問われることはない。
心は肉体の目では見えないから。
肉体をコロすことは許されないが、心をコロすことは目に見えないから許されてしまう。
これは3次元ならではの矛盾かもね。3次元は物質世界だからね、
物質世界だということ自体分離の世界だから。肉体の目に見えるものが優先される。肉体の目で見えることと、肉体の目で見えないこと、これも分離だな。
ゼーレマークに書かれている文字
“berm Sternenzelt richtet Gott, wie wir gerichtet.”
“星空の上で神が裁く、我等がどう裁いたかを”の
“星空の上で神が裁く”
ってのは、ようするに、ボクらが生きる人生の中で、肉体の目で見て悪いことをすると、星空の上で神に裁かれる、ってことになるんだろう。
まあ、エヴァだからこそいろんな解釈できちゃう。これは宗教も同じで、旧約聖書もいろいろな解釈ができるということになる。