旧約聖書創世記のエデンの園とエヴァの関係性


【中古】旧約聖書 創世記編

 

 

エデンの園にある生命の木と善悪の知識の木


ゼーレマークのシンボルは黙示録の仔羊に由来するが、旧滝聖書アダムとイブの創世記によれば

アダムの創造後実のなる植物が創造された。アダムが作られた時にはエデンの園の外には野の木も草も生えていなかった。アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり、その中央には生命の木と知恵の木と呼ばれる2本の木があった。それらの木は全て食用に適した実をならせたが、主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。なお、命の木の実はこの時は食べてはいけないとは命令されてはいない。その後、女(エバ)が創造される。蛇が女に近付き、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧めた。アダムとエバ(Wikipedia)

 

【エデンの園の中央には 命の木と善悪の知識の木と呼ばれる2本の木があった。】


これはエヴァの中では 使徒が命の木の実を所有し、人間が知恵の実をと所有していることになる。

 

【それらの木は全て食用に適した実をならせたが、主なるエホバ神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。なお、命の木の実はこのときは食べてはいけないと命令されてはいない。】


この創世記の記述によれば 
エデンの園には 元々、命の木と善悪の知識の木の2本があったわけだ。

 

【その後、女(エバ)が創造される。蛇が女に近付き、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。】

まあ、イブが蛇に唆されて善悪の知識の木の実を食べてしまう。そしてイブはアダムに食べるように勧め、アダムも善悪の知識の木の実を食たとされてる。

 

アダムとイブは、命の木の実はこのときは食べてはいけないと命令されてはいないのに、命の木の実は食べず、食べてはならないと言われた善悪の知識の木の実だけを食べた。

 

この時主なるエホバ神は アダムに対してのみ善悪の知識の実だけは食べてはならないと言っていて エバはまだ創造されていない。

(ちなみにアダムとイブに関して 聖書ではイブのことをエバと表記しているので【】の中は聖書と同じにエバししている)

 

だがよく考えてみれば、イブが創造される前はアダムひとりだったわけだし、アダムが命の木を食べていないという記述はどこにもない。

 

ということは、アダムはイブが想像される前に命の木を食べていたと解釈する方が自然かもしれない。

 

そうするとエヴァでは 白き月はアダム
黒き月はリリス(イブ、聖書の記述ではエバ)


白き月のアダムは第1使徒(第1使徒アダムより 第3使徒から第17使徒が生まれている。)そして、第18使徒(人間)のみが黒き月リリス(イブ、聖書の記述ではエバ)から生まれている。

 

創世記の記述からすれば、第18使徒(人間)はアダムの次に創造されたイブにあたり、蛇に唆されて善悪の知識の木の実を食べた、ということになる。アダムは、イブが創造される前に命の木を食べていたと考えると辻褄が合う。

 

エヴァでは、ファーストインパクトでリリスの卵「黒き月」が地球に落下する。ファーストインパクト以前は、先に地球に落下していた「白き月」から生まれたアダムがいた。

 

リリスの卵「黒き月」が地球に落下したことにより、「白き月」から生まれたアダムの子である使徒は眠りについた。

 

ファーストインパクト以前に 「白き月」から生まれたアダムの子である使徒は 生命の実(命の木の実)を食べていた。

 

イブが蛇に唆されて善悪の知識の木の実を食べ、アダムにも勧めたという創世記の部分とは違うが そのほかは見事に一致する。

 

L.C.Lが命のスープと言われているように、人の形がなくなっていきL.C.Lに溶けることにより、ユングの言う集合的無意識でひとつになれると考えれば、白き月のアダムは命の木の実を食べていて、 総ては繋がっていてひとつであることを知っている、と考えることもできる。

 

ユング心理学でいう 集合的無意識(普遍的無意識)は、ユングは、個人的な無意識にとどまらず、個人を超え人類に共通しているとされる集合的無意識(普遍的無意識)がある、と言っている。ユング心理学の基本概念(Wikipedia)

 

こう考えると 黒き月リリス(イブ、聖書の記述ではエバ)から生まれた第18使徒(人間)は、黒き月リリスが最初に肉体を持った時に 生命の実(命の木の実)を食べなかったことにより、総てはひとつだという集合的無意識(普遍的無意識)のことを忘れてしまった。

 

たとえ白き月のアダムが知恵の実(善悪の知識の木の実)を食べていても、生命の実(命の木の実)を食べているので、総ては繋がっていてひとつである集合的無意識(普遍的無意識)のことを忘れてはいない。

 

また、黒き月リリスが知恵の実(善悪の知識の木の実)を食べたことにより、「善と悪」という完全分離しか認識できなくなったと考えるとしっくりくる。善悪の知識の木の実は、完全分離を体験するための【エゴ】と捉えることもできる。

 

ようするに感覚を忘れてしまい、それにとって代わるモノとして、思考や考えのみで生きることになる。

 

思考や考えのみで生きるというといかにも短絡的に思えるかもしれないが、エゴは脳内感情を作り出すことさえもできる。

 

聖書の創世記で善悪の知識の木の実は 「善悪の知識」となっている。知恵ではなく知識という記述だ。知識というのはあくまでも 感覚ではないということだ。

 

脳内感情というのは、言葉で説明するのは至難のワザに近いけど、感情だと思っているものは、実はエゴが創り出した脳内感情だったりする。

 

脳には自分が納得できるように、都合のいいようにすり替えたりする防衛本能みたいなものが備わっているから。

 

そして、使徒が総てはひとつだという集合的無意識(普遍的無意識)を知っているとすれば、白き月のアダム(使徒)が黒き月リリスから生まれた第18使徒(人間)に、総ては繋がっていてひとつである集合的無意識(普遍的無意識)知っていて浸食しようとしているのかもしれないと考えてみるのも面白い。

 

ちなみに「使徒」は新約聖書では

使徒(しと)とは、狭義にはイエス・キリストの12人の高弟を指すが、それに近い弟子(パウロ、七十門徒など)にもこの語が用いられることがある。広義には、重要な役割を果たしたキリスト教の宣教者(「遣わされた者」)および、その宣教者の称号。原語のギリシア語はαπ?στολο? (apostolos)で、「派遣された者」が原義である。転じて「使者」「使節」をも指す。このギリシア語は、キリスト教文書以外にも出てくるものだが、キリスト教文書の邦訳の際だけ「使徒」という専門語を当てて訳すため、両者の単語間には齟齬がある。この点では、他の西洋語も、ギリシア語の形を踏襲しているものの、事情はさして変わらない(羅: apostolus、仏: apotre、独: apostel、英: apostleなど)。なお、「使徒」という訳語は、漢訳聖書から継いだものである。また、イスラム教においては、ラスール(ras?l, ????)という語が同じく「使者」の意であり、キリスト教の使徒と似た意味に用いられて、訳語として「apostle」や「使徒」があてられている。使徒(Wikipedia)

 

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