ネルフマークの由来を探る(六)神は天に在り、世は全てこともなしは捉え方次第で意味が変わってくる


人生は「捉え方」しだい 同じ体験で楽しむ人、苦しむ人

 

 

ネルフマークに書いてある言葉「神は天に在り、世は全てこともなし」は捉え方によって意味が全く違ってくる

 

ネルフマークの下に書いてある言葉。
NERVマークの葉っぱの下に書いてある英文は


「GOD’S IN HIS HEAVEN.ALL’S RIGHT WITH THE WORLD」


「神は天に在り、世は全てこともなし」


詳細は 

 

 

 

 


 

一般的な解釈は


「人間の世界では色々と不幸があるようだが、天の視点から見ればそれは大したことではない。人がどんなに喜怒哀楽のるつぼに身をすりつぶされていようと、空を始め自然はそんなことには頓着せず悠々と広がっているではないか。」


これまでをザックリまとめてみると


「神は天に在り」
    ↓
神は自分の外にいる。

「世は全てこともなし」
    ↓
時間も空間もなにもない。


が、一部では「内なる光」つまり神は自分の外側にいるのではなく、自分の内側にいるという考えの人たちもいる。

 

スピリチュアルをやっている人の中でも、「内なる光」という人もいるが、スピリチュアルの場合「内なる光」というのは単なる光のことなのか、その光は神を指すものなのか、大いなるものを指すのか、はたまたワンネスのことを指すのかその定義がいまひとつハッキリしない。


一方、キリスト教ではクエーカーの考え方らしい。キリスト教自体たくさんの宗派があると思うのでどのくらいの割合なのかは分からないけど、宗教でもこの考え方はあるんだね。


内なる光(うちなるひかり)の概念は、様々な形態のクエーカー(キリスト友会)の考え方の中心をなすものである。

 

この概念は個人の中に神が現れ、神の存在が直接個人の経験に現れるとしている。それぞれに内なる光があるとするクエーカーの信仰は、「すべての人を照らすまことの光であって、世にきた」[2]という新約聖書の一節(ヨハネによる福音書1章9節)から来ている。友会徒は「全ての」人は自身の内なる光と共に生まれたという一節を協調している。初期の友会徒は、この一節を自分達の標語のひとつとし、度々「光の子供たち」に自らを擬えた。
内なる光(Wikipedia) クエーカー(Wikipedia)


考え方はいろいろってことだけど

「神は天に在り、世は全てこともなし」の
「神は天に在り」
    ↓
神は自分の内側にいる。今回はスピリチュアルの定義がハッキリしていないので、キリスト教クエーカーの考え方を当てはめてみると

「世は全てこともなし」
    ↓
時間も空間もなにもない。


こう考えると、意味が全く逆になる。神は自分の外にいる、と考えれば 何もないところから、神が世界を創造した。

 

と、こんなイメージになる。しかし、神は自分の内側に光としている、と考えれば 人は自身の内なる光と共に生まれた、となる。とゆうことは 自分自身が現実を創造していることになる。やっぱり意味は真逆になる。


そこで「自分」という言葉の由来。「自分」という言葉は、自ら分ける、と書く。自分の「分」は、本来備わっている「本分」の「分」で、自らの力量をさす語。だったそうだ。語源由来辞典


「自分」という言葉が「自ら分ける」と書くことから語源をたどれば、「自らの力量」だってさ。

 

語源の意味を考えた場合、何もないところから自らの力量を分ける、と捉えることも出来る。

 

すると、自分の外に神がいると考えるより、自分の内側に内なる光(神)がいると捉えた方がしっくりくる。あくまでも語源と照らし合わせた場合だけどね。


てっつがくぅ~。まっ、考え方はいろいろあるし、捉え方もいろいろだし、人によって真実は違ったものになるんだろうと思うけど。

 

「自分」の語源で、内なる光(神)と妙に合致しちゃうのが面白い。どのみち、信じるか信じないかはあなた次第ってことになる。


しかし、人は自身の内なる光と共に生まれた、内なる光(神)が自らを分けた、こう解釈すると何事も人のせいにはできなくなっちゃう。全ては自己責任ってことになってしまう。


「人は生まれながらにして罪がある」という捉え方をすれば、自分自身で罪を創っちゃったことになるから。

 

とてもじゃないけど自分の責任で罪を創ったなんて思いたくない。「生まれながらにして罪がある」とすれば、必然的に神は自分の外にいるって発想になるんだろう。

時間とはなんだろう 最新物理学で探る「時」の正体 (ブルーバックス)

 

ネルフマークに書いてある言葉「神は天に在り、世は全てこともなし」を逆の意味で捉えてみるのもエヴァっぽい


どのみちこの地球は3次元だし、分離の世界だから、罪→悪いこと、がなければ反対の、善→良いこと、も分からなくなるし、どっちかひとつしかなかったら3次元でもなくなる。


・ 良い、悪い
・ 正しい、間違ってる
・ 上、下
・ 右、左
・ 表、裏


これらの対極は3次元の理(ことわり)だから、全てはコインの裏、表ってこと。
3次元(Wikipedia) 次元(Wikipedia)

 

3次元の理に当てはめてみると


「神は天に在り、世は全てこともなし」は、
「神は自分の内側にいて、時間も空間も何もない」となる。


「内なる光(神)が自らを分けた」と考えると、3次元や他の次元さえも自ら創造していることにってしまうんだろうけど、こうなるとピンとくる人はほとんどいないだろう。

 

まあ、どんな考え方をしようが、どんな解釈をしようが肉体を持って地球に生きていることに変わりはない。


自分自身が罪を創ったなんて、まっ受け入れられない人がほとんどだろうから、神を自分の外に置いて、あがなってもらうことで救われる。ってことにするのが一番意識で納得できるのかもしれない。


あがなってもらう、ってこと自体 自分以外の何かに頼るってことになるけど、これはネルフもゼーレも目指しているところだ。


「神は天に在り、世は全てこともなし」

 

「世は全てこともなし」→【何もない】→【色即是空】
になにやら共通するものがあるような気がする。

 

概念・時間・言説―ヘーゲル“知の体系”改訂の試み (叢書・ウニベルシタス)