エヴァンゲリオンの世界を凝縮しているようなゲンドウと冬月の会話は考えさせられる


エヴァンゲリヲン新劇場版:破より


上空からセカンドインパクト後の状況を見ているときの、ゲンドウと冬月

 

 

世界は全て調和と秩序で成り立ち、人の心が世界を乱す

 

冬月   
「これが母なる大地とは・・・痛ましくて見ておれんよ」

ゲンドウ 
「だがしかし、この惨状を願っていた者たちもいる。原罪のけがれなき 浄化された世界だからな」

冬月   
「私は人でけがれた混沌とした世界を望むよ」

ゲンドウ 
「カオスは人の印象に過ぎない。世界は全て調和と秩序で成り立っている」

冬月   
「人の心が世界を乱すか・・・」

 

セカンドインパクト後の赤い海を見て
冬月は
「痛ましくて見ておれんよ」と言い

 

ゲンドウは
「原罪のけがれなき浄化された世界だからな」と言う。


そして冬月先生は
「原罪のけがれなき浄化された世界」よりは
「人でけがれた混沌とした世界を望むよ」と言う。


そこでゲンドウは【カオス】は「人の印象に過ぎない」と。
(カオスとは 日本語で 混沌、無秩序という意味)

 

「カオスは人が見たときの印象に過ぎない」と。

 

混沌として無秩序に見える世界は
「調和と秩序で成り立っている」と。

 

たいていの人はこの世界を見れば、調和と秩序で成り立っているようには見えないだろう。

 

それをゲンドウは
「調和と秩序で成り立っている」と見ている。

 

冬月先生もそれを受けて
「人の心が世界を乱すか・・・」と言う。

 

人の心が世界を乱している、と言っている。

 

ゲンドウと冬月の会話は、エヴァンゲリオンの世界を凝縮しているような的を射た言葉だ。ゲンドウは【カオス】は個々の主観によるものでしかないとみている。

 

冬月も人の心のあり様が世界を乱し創っているとみている。

 

主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works)

 

人の心が世界を乱しているのに、世界は調和と秩序で成り立っているという矛盾はなぜか

 

「わたしが完全であるためのは、影の部分がなくてはならない」
陰と陽の二元性から(光と闇の二元性)カール・ユングのシャドウ(影)という概念

 

この世界は分離の世界だ。

 

やって良いことと悪いこと、善と悪、光と闇、人の心の中には 矛盾するふたつのものが同居している。

 

それは排除しようとしても排除できるものではない。

 

もともと持っているものだ。もともと持っているのなら、自分は何を選択するのか。

 

良いことや、正しい行いをすることか?
人の為に尽くすことを、美徳とするか?
それとも、光を求めるのか?
良くないことや悪い感情を感じることは、いけないことなのか?

 

やって良いことと悪いこと、善と悪、光と闇、これはコインの裏と表と同じこと。

 

コインの表が良くて裏が悪い、ということはない。
コインはただそこにあるだけだ。

 

そのコインの裏と表に対してなぜ、良い 悪い、の判断をするのか?何を基準に良い、悪い、の判断をするのか?

 

良いものだけに目を向ける。
善だけに目を向ける。
光だけに目を向ける。

 

それは、正しいことなのか?正義となるのか?
それで満足できるか?満ち足りて幸せになれるのか?

 

やって良いことと悪いこと、善と悪、光と闇、
この対極は現実では、振り子と同じになる。
光に傾けば傾くほど、闇もどんどん深くなる。
光に傾き過ぎた振り子は、やがて闇に振り戻されることになる。

 

やって良いことと悪いこと、善と悪、光と闇、
それらは本当は何もない。ただそこにあるだけだ。

 

ただ”ある”ということを認められたとき
ただ”ある”ということを受け入れられたとき、ただそこに立ち尽くす。
この秘密を知った時、この世の理(ことわり)に愕然とするだろう。
すべてはありてあるもの。

 

すべては、自由意志に従う。
自由意志は、何を願う?
何を願おうと、自分の望んだ世界にいる。

それは言うまでもなく【カオス】の世界だから。

自由意志 スキナー/デネット/リベット (〈名著精選〉心の謎から心の科学へ)

 

[カオス]
(古典ギリシア語:Χ?ο?, Khaos)とは、ギリシア神話に登場する原初神である。
「大口を開けた」「空(から)の空間」の意[概要]。

[原初の神々]
ヘーシオドスの『神統記』に従うと、世界の始まりにあって存在した。原初の神であるが、最初にカオスが存在したという意味ではない。世界(宇宙)が始まるとき、事物が存在を確保できる場所(コーラー)が必要であり、何もない「場」すなわち空隙として最初にカオスが存在し、そのなかにあって、例えば大地(ガイア)などが存在を現した。また、ヘーシオドスはカオスのことをカズム(裂け目)とも呼んでいる[御注]。『神統記』によれば、カオスの生成に続いてガイア(大地)が生まれ、次に暗冥の地下の奥底であるタルタロスが生まれた。また、いとも美しきエロース(原愛)が生まれた。しかし、これらの原初の神々はカオスの子とはされていない[参考文献]。

[カオスの子]
カオスより生まれたものは、エレボス(幽冥)と暗きニュクス(夜)である。更に、ニュクスよりアイテール(高天の気)とヘーメレー(ヘーメラー・昼光)が生まれた[関連項目]。世界はこのようにして始まったと、ヘーシオドスはうたっている。
          
[原罪](げんざい、羅: peccatum originale)
エデンの園において人類の始祖であるアダムとイヴが最初に犯したとされる罪、およびその罪が人間の本性を損ね、あるいは変えてしまったため、以来人間は神の救い・助けなしには克服し得ない罪への傾きを持つことになったという、キリスト教の多くの教派において(すべての教派ではない)、共有される思想。ユダヤ教に「原罪」という概念はない。

後者定義での罪への生来の傾きを生来の腐敗性、また聖書の用語では「肉」という。原罪の理解は、キリスト教の教派によって大きな差があるだけでなく、ペラギウス主義のように、中には原罪という概念を持たない教派もある。(ウィキペディアより)

 

ユング 心の地図 新装版