レイとシンジは育った環境により ゲンドウを見る視点がまるで違う

 

エヴァンゲリオン TVシリーズ

第六話「決戦、第3新東京市」より

 

病院で目が覚めたシンジにレイが食事を持ってくる。
淡々と作戦内容を伝える。このシーンも TVシルーズと映画でセリフはちょっと違う。


ヤシマ作戦に関しては TVシリーズよりも映画の方が時間を割いて描かれていて、映画の方が シンジの心理描写が細かい。

 

 

ゲンドウに対して対照的なレイとシンジ


有名なセリフ
レイ  
「いいえ、あなたは死なないわ。わたしが守るもの」

シンジ 
「ボクに守る価値なんてないよ」


ヤシマ作戦に関しては TVシリーズよりも映画の方が時間を割いて描かれている。映画の方がシンジの心理描写が細かい。


次回 第七話「人の造りしもの」
迫りくる使徒に対し 民間の開発した人型兵器が制御不能に陥る。はたしてミサトは炉心融解を止められるのか。(第七話の予告ナレーション)


エヴァンゲリヲン新劇場版:序より

生きる技法

 

ゲンドウを信頼するレイと あんな父親というシンジ

 

シンジは自分には守ってもらう価値なんてないと思ってる。まあシンジの生い立ちをみれば 父親のゲンドウから捨てられたと感じているんだから 捨てられた自分には価値がないと思ってしまうのはい方がない。

 

子どもにとって親から捨てられるということは 自分自身の存在自体を否定されたように感じるから。
捨てられる=いらない存在=生きている価値がない、って図式が出来上がってもおかしくない。

 

たとえ親が子どもを捨てるつもりがなくても 子どもの方が捨てられたと感じてしまえば自分に価値を見出すのは難しくなってしまう。シンジの場合 母親を亡くしているからよけいかも。

 

ゲンドウの元で育ったレイは自分の感情がよく分からない。分からなくても感情自体がないわけじゃないので 何も感じていないように見えても 心のどこかでは何かを感じている。

 

ゲンドウは感情を外に出すことがないからねぇ。ゲンドウの元で育ったレイは 感情を外に出さないことを学ぶ。それは自分が生まれてから 生きるためのお手本になるからね。


小さい子どもにいいとか悪いとか こうした方がいいとか ああした方がいいとかは分からない。分からないから一番身近にいる大人を真似して生きようとする。

 

とはいっても感情は人には必ず備わっているものだから 子どもも小さいうちは感情を表に出したりしているだろう。でもそれが認めてもらえないと分かると 感情を出すのをやめてしまう。

 

感情を感じることと 感情を外に出すことは別なんだけど、小さい子どもにとっては そんなこと分からない。


感情を出して受け止めてもらえなかったり 否定されたりすると、感情を出すこと自体NGだと思うようになるし 感情を感じることもNGだと思うようになったりする。

 

感情自体をNGだと感じれば 感じることを辞めてしまう。でもそれは感じないようにしているだけであって 何も感じていないことはありえないから 感じてしまったものは心のどこかに封印されていく。

 

人によって違うけど 心が耐えられなくなれば 心と体を切り離して解離する。心と体を切り離して解離していれば その間の記憶が飛ぶ。


記憶と言うのは感情に作用するので 心を切り離して感情を感じないように解離すると、その間の記憶がなくなったりする。

 

ガンダムのアムロも
”人間は 感情の生き物だから”と言っている。

 

感情の生き物なのに感情を切り離せるかって?と疑問に思うかもしれないけど、ヒトには 都合よく働く意識があるからね。意識で思考することで 自分自身が納得できたように感じてしまう。

 

意識で思考することで納得できてしまえば 傷つかなくて済む一番いい方法だから 心は封印できてしまう。心を封印してしまえば 他人の感情に対しても鈍感になるんだけど、感じないように封印してしまえば 自分の本当の心は見えなくなる。

 

これは 心が壊れないようにするための 生きる術でもある。
何がいいとか悪いとかではなく、ただそうなってしまったというだけで、言い方を変えれば「運命」とも言えるだろう。

 

ヤシマ作戦 ラミエル戦

エヴァンゲリヲン新劇場版:序 

結局シンジはエヴァに乗るけど

エヴァンゲリヲン新劇場版:序 ヤシマ作戦 


エヴァンゲリヲン新劇場版:序 ヤシマ作戦 


エヴァンゲリヲン新劇場版:序 ヤシマ作戦 


エヴァンゲリヲン新劇場版:序 ヤシマ作戦

「自分の心」をしっかり守る方法―――「くやしさ」「悩み」「モヤモヤ」が消えていく (知的生きかた文庫)