第12使徒レリエルに取り込まれたシンジ、自問自答の先

 

エヴァンゲリオン TVシリーズ

第拾六話 「死に至る病、そして」より

EPISODE16:Splitting of the Breast

「レリエル」に取り込まれたシンジ

 

 

2人のシンジ、自問自答


シンジ
「誰?」

シンジ
「碇シンジ」

シンジ
「それは僕だ!」

シンジ
「僕は君だよ。人は自分の中にもう一人の自分を持っている。自分と言うのは常に2人でできているものさ」

シンジ
「2人?」

シンジ
「実際に見られる自分とそれを見つめている自分だよ。碇シンジと言う人物だって何人もいるんだ」

シンジ
「君の心の中にいるもう一人の碇シンジ、葛城ミサトの心の中にいる碇シンジ、惣流アスカの中のシンジ、綾波レイの中のシンジ、碇ゲンドウの中のシンジ」

シンジ
「みんなそれぞれ違う碇シンジだけど、どれも本物の碇シンジさ。君はその他人の中の碇シンジが恐いんだ」

シンジ
「他人に嫌われるのが恐いんだよ!」

シンジ
「自分が傷つくのが恐いんだよ」

シンジ
「悪いのは誰だ?」

シンジ
「悪いのは父さんだ!僕を捨てた父さんだ!」

シンジ
「悪いのは自分だ!」

アスカ
(そうやってすぐに自分が悪いんだ、と思い込む!それが内罰的だって言うのよ!)

シンジ
「何もできない自分なんだ!」

ミサト
(何もできないと思っている自分でしょ?)

レイ
(お父さんの事、信じられないの?)

シンジ
「嫌いだと思う。でも今は分からない」

ゲンドウ
(よくやったな、シンジ。)

シンジ
「父さんが、僕の名前を呼んだんだ。あの父さんに誉められたんだよ!」

シンジ
「その喜びを反芻して、これから生きていくんだ?」

シンジ
「その言葉を信じたら、これからも生きていけるさ!」

シンジ
「自分をだましつづけて?」

シンジ
「みんなそうだよ、誰だってそうやって生きてるんだ」

シンジ
「自分はこれでいいんだ、と思いつづけている。でなければ生きていけないよ」

シンジ
「僕が生きていくには、この世界には辛い事が多すぎるんだ」

シンジ
「たとえば、泳げないこと?」

シンジ
「人間は浮くようにはできていないんだよ!」

シンジ
「自己欺瞞だね」

シンジ
「呼び方なんか、関係ないさ」

シンジ
「嫌なことには目をつぶり、耳をふさいできたんじゃないか!」

ケンスケ
(あいつの妹、こないだの騒ぎで)

ミサト
(人のことなんか関係ないでしょ!)

ゲンドウ
(帰れ!)

シンジ
「嫌だ!聞きたくない!」

シンジ
「ほら、また逃げてる」

シンジ
「楽しいことだけを数珠のように紡いで生きていられるはずが無いんだよ、特に僕はね」

シンジ
「楽しいこと見つけたんだ。楽しいこと見つけて、そればっかりやってて、何が悪いんだよ!」

 

プラグスーツの生命維持システムも危険域に入るころ

シンジ
「父さん、僕はいらない子供なの?父さん!」

シンジ
「自分から逃げ出したくせに」


「そうだ。この男は自分の妻を殺した疑いがある!」


「自分の妻を殺したんだ!」

シンジ
「違う!母さんは…笑ってた…」

ミサト
(あなたは人に誉められる立派なことをしたのよ。)

ゲンドウ
(シンジ、逃げてはいかん。)

ミサト
(頑張ってね。)

シンジ
「ここは嫌だ…一人はもう、嫌だ…」

シンジ
「保温も、酸素の循環も切れてる…寒い…だめだ、スーツも限界だ…ここまでか…もう、疲れた…何もかも…」

シンジ
「……………………」
この時シンジは 母ユイを感じる

シンジ
「お母さん!?」

ユイ
「もういいの?そう、よかったわね」

 

レリエルに取り込まれて 究極の状態に陥ったシンジ
シンジを助けるかのように もうひとりのシンジが声を掛ける

 

シンジの意識は常に否定的だが それに対してもうひとりのシンジは俯瞰的だ。
逃げたいシンジにとっては聞きたくないことを 容赦なく突きつけてくる。

 

苦しい時、しんどい時に いつも俯瞰で自分自身を見ることができれば 悩むことも少なくなりそうだが そう簡単には出来ないのが常だろう。

 

人は皆 自分の枠を通して物事を見たり考えたりしている。まったく同じ体験をしても 元々持っている個人の資質や性格によって受け取り方は違ってくる。

 

何がいいとか悪いとか、何が正しくて何が間違っているかも それを見る人や見る角度によって違ってくる。

 

自分が固執していると気づける人は幸いだ。

 

シンジが言うように 楽しいことだけ見つけて生きていくのも一つの選択だ。だがそうしたところで 元々持っているネガティブが消えるわけではない。

 

楽しいことに焦点を合わせ ネガティブな部分に「楽しいこと」で蓋をしただけのことになる。

 

それを自分自身でOKを出せれば それはそれで一つの選択としてありだろう。しかし蓋の下にあるものが 事あるごとに顔を出すのは否めない。

 

そして簡単には全てを受け入れられないから 苦しくもなるし葛藤もする。

 

シンジもイヤイヤながら自問自答しても 答えがすぐに出るわけじゃない。
見たくないものには でもでも、と言い訳をしたくなるし 素直に聞き入れることは難しい。

 

それがいい訳でも悪い訳でもまく その時はこれしかできなきだけだ。
まだまだシンジの葛藤は続く。

 

フィギュア 碇シンジ Ver RADIO EVA 限定オリジナルカラー版

 

誰も傷つきたいなんて思っていない

 

誰しも自分が傷つくのは避けたいし そんな経験したくはない。だけど そこにとどまっている限り前に進むことは出来ない。

 

自分の傷やトラウマは自分自身で癒していくしか方法はない。

 

誰かに優しくされたりして少しは楽になったとしても 根本的に癒されるわけではないので 根本の問題は解決されないままになる。

 

心理学的にあーだこーだ言ったところでも 頭では何となく理解できたとしても そこに心が追い付かなかったらあまり意味はない。

 

自分を癒していく過程では 頭で理解するだけでなく 心が納得することが重要になる。心とは端的にいいえば感情のこと。

 

シンジの「父さん、僕はいらない子供なの?父さん!」とうのは 現在のシンジが感じていることだけど 子供の頃からずっと思っていることだ。

 

この気持ちを癒すのは 父親と対決することも一つの選択肢だが、プロセスとして 現在のシンジが納得すること、そして「僕はいらない子」と思ったシンジの中の子供のシンジが納得することが重要になる。

 

このプロセスを踏めれば 父親と対決してもしなくても癒されるだろう。ポイントは一番最初の根源までたどり着いて 自分の中の傷ついた子供を抱きしめて需要することがいかに大事かということ。

 

母親のユイだけは どんなシンジであろうが全面的に受け入れているのがある意味救いかもしれない。

 

生まれてきたことに価値がある 〜すべての答えは自分の中にあった〜

 

もうひとりの自分との会話で解決できるのか

 

シンジの会話を見てもそう簡単にはいかないよね。ただ何もしないよりは少しは前に進める。

 

「すべての答えは自分の中にある」ということも見聞きする。

 

悩みがあって誰かに何かを相談するとき 共感してもらえて安心するような体験をしたことがある人もいるだろう。

 

この安心感は すでに自分の中に答えがあって それに共感してもらえらことへの安心感になる。

 

こう考えると「すべての答えは自分の中にある」と思えてくる。

 

ニーバーの祈り

神よ、変えることのできるものについて、

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、

それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、

変えることのできるものと、変えることのできないものとを、

識別する知恵を与えたまえ。

(翻訳者:大木 英夫)


O GOD, GIVE US

SERENITY TO ACCEPT WHAT

CANNOT BE CHANGED,

COURAGE TO CHANGE WHAT

SHOULD BE CHANGED,

AND WISDOM TO DISTINGUISH THE ONE FROM

THE OTHER

ラインホルド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)

 

 

魂の冒険: 答えはすべて自分の中にある (三宝出版株式会社)